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ダンススタイル
リットーミュージックより毎月発売。
YUKOダンス体験談コラム 連載ページより。
Vol.05:ベストダンサーを夢見て
〜起用される女性は、たった一人。オーディションに行ってみると…
Vol.04:ベストダンサーを夢見て
〜本人には会えなかったけれど、ついにマイケルの仕事をゲット!!
Vol.03:ベストダンサーを夢見て
〜NYで修行するか、LAで腕試しをするか…、それが問題。
Vol.02:ベストダンサーを夢見て
〜東京、そして憧れのニューヨークへ!
Vol.01:ベストダンサーを夢見て
〜初めて観た華やかな舞台

ユーコ スミダ ジャクソン連載コラム

Vol.05起用される女性は、たった一人。オーディションに行ってみると…

知識不足が発端で起きてしまった強制送還の後、無事LAに戻ってくることのできた私は、再びさまざまなオーディションやキャスティングへと足を運び始めた。
そして手に入れた仕事の中に、映画最大手の祭典、『アカデミー賞』でのステージというのがあった。
プログラムの中に、その年に注目された映画を5作品ほど紹介するコーナーがフューチャーされており、それぞれのサウンドトラックをメドレーで流しつつ、そこにダンスを絡めるといった演出になっていた。
選ばれた映画の中には、セリーヌ・ディオンが主題歌を歌った、ディズニーの「美女と野獣」などがある。私はその栄えあるステージで踊れることになったというわけだ。
ダンサーにとっても相当にグレードの高い仕事のひとつだったようで、選ばれた男女20名くらいのダンサーは、みんな素晴らしい才能と技量の持ち主ばかりだった。そんな中のひとりに選ばれた自分が誇らしく思えた。

映画『フェーム』に出演し、その後ダンサーとしても活躍した有名な振付師、デビー・アレンの厳しいリハが始まった。期間は約3週間。彼女は機嫌の悪い時、なぜか決まってその矛先を私に向けた。
『ユーコ、何やってるの!』
と、イジメにも似たような叱責を受けることもしばしば。フリを間違えてるわけでもないし、何が悪いかも指摘してくれないので当時は理解に苦しみ、落ち込んだりもした。
けれども周りが励ましてくれたおかげで何とか最後までやり通すことができた。あとになって彼女と話す機会があり、当時の叱責の理由を聞いたところで、笑いながら、
「良くも悪くも、あなたは目立っていたのよ」
と、ひとこと。うーん、これって…。

そして本番の日がやってきた。来場した大勢のハリウッド俳優、スターといわれる人たちが見守る中、いよいよ始まるショーの出番を前に、私は舞台の袖に立っていた。
ふと横に立っている、赤いドレスに包まれた一人の女性のオーラと視線に気がづいた。なんと、晩年のオードリー・ヘプバーンだった。
本当に美しかった!目が合った瞬間、彼女は優しく微笑みかけてくれた。それは出番直前の私にとって、大いなる勇気、そして力となった。
緊張が解け、やる気が全身にみなぎってきた。ほんの一瞬の出来事だったが、今でも彼女のその微笑みは、私の心の中の大切な宝物となっている。

マイケル・ジャクソンが女性ダンサーとたった一人、ワールドツアーに起用すると言う噂は、確かに耳にしていた。そういう噂はいつも風よりも早く伝わる。
アルバム『デンジャラス』をリリースした年の、『デンジャラス・ツアー』と銘打たれた大規模なツアーのためだった。
だが、マイケル側がすでに選考していた20人の候補の中に自分が入っていようとは、さすがに想像もしていなかった。何という光栄!何という幸運!その知らせをエージェントからの電話で知って心が躍った。ところが…
そういうやり方は不公平だ!という他のダンサーたちの声が高まり、結局オープンコール (誰でも受けられる) 方式の一般オーディションに変わってしまった。
私としては残念だったが、マイケルのツアーといえば、世界中のダンサーが夢見る最高のステージ。それもいたしかたないと頭を切り替えたら、急にやる気が出てきた。
「よぉし、やったるぜ!」

オーディションにはアメリカ国内はもちろん、海外からもダンサーが駆けつけていたらしい。当日、準備で少し遅れてしまった私が到着した時、会場はあふれんばかりの人の渦。ゆうに百人は超す大勢のダンサーたちに混じって、遅れてきた私は自動的に後ろの方で、できるだけ早くフリを身体に叩き込もうと集中した。
そこはまるで映画『コーラスライン』でのワンシーンのような世界で、お眼がねにかなわないダンサーたちには、次々に『お疲れさん。帰っていいよ。』といった声がかけられていく。
スタジオ内の人の数がどんどん減っていった。

そうした一次審査を経て残ったのは40〜50人くらいだっただろうか。二次審査は5〜6人のグループに分けられ、一次と同様に8エイト (16小節) くらいのルーティンを踊らされた。そのころにはすでに、ほとんど顔見知りのダンサーになっていた。
結局その後に残された、自分を含めた10人くらいが、カメラの前でインプロ (即興) を一人ずつ踊らされることになった。そのビデオを観てマイケル自身が決めるという。終了後、ほぼ一日がかりだったせいか、結果はどうあれ思う存分やった!という気持ちで家に帰った。
その後、待望の合格!たった一人の女性ダンサーに自分が選ばれたのだ!

こういう言い方をすると傲慢に聞こえるかもしれないが、マイケルのツアーダンサーの話を聞いた瞬間、「これは私しかない!」と思ったことを覚えている。自信過剰というか身の程知らずというか、私はこういうとき、なぜか極端にポジティブな方向に考えが傾く。
アカデミー賞のときデビーに、わけもわからずイジメられていたことだって、「あれは私が、みんなの中で浮いていたからだ。マイケルの仕事では女性ダンサーはひとりきり。だからきっと浮いてしまう自分の何かが生かせる、受け入れてもらえる!」な〜んて思っていたのだった。とはいえ本当に選ばれた時は、相当に嬉しかったけれど。

2ヵ月近いリハーサルが始まった。最初はダンサーだけによるリハだった。振付師は、それまでのマイケルのツアーに女性ダンサーを起用したことがなかったためか、頭を悩ませながら振付を進行させていた様子だったが、フリは着々と完成していった。
男性メンバーたちと一緒に踊るいくつかのナンバーとは別に、「イン・ザ・クローゼット」、「ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール」、「デンジャラス」などのメンバーでは、私とマイケルが一対一で絡む部分が演出れされており、私のみのフリが与えられた。リハではマイケル役の代行を立てながら、マイケルと踊ることを楽しみに想像しながら踊った。
ツアー出発まで一ヵ月を切ったころ、ある映画撮影所の中の大きなロフトに、実物大サイズのステージ、装置、ケータリングなどが設置され、バンドやスタッフ合同による大がかりなリハが始まった。一日がかりのリハーサルは、毎日が発見でエキサイティングだった。
そしてようやく本番前二週間を切ったころ、ついにマイケルがリハに参加!自己紹介の声を聞いたとき、とてもシャイで、いまにも壊れそうな印象だったことを覚えている。ところがリハが始まるやいなや、それとは正反対な彼を目の当たりにすることになった。口にする強い意見、そしてステージ上で一緒に踊ったときに体感する、ものすごい何か。それが何かわからないけれど、とてつもなく偉大なる何かであったことは間違いない。
結局、新しい曲をやるにはマイケルの練習時間が足りないという理由で、残念ながら数曲以外はカットされた。トリック演出のために加わったマジシャン、デヴィッド・カッパーフィールドもリハに加わるなど、ステージ上の演出は、どんどん膨らんでいった。

92年5月、荷物用大型ジェット機3台とマイケル専用ジェット、そして私はそれらとはまた別の、ダンサーとミュージジャン、スタッフ専用のジェットに乗り込み、4ヵ月間近い、ヨーロッパほぼ全域に渡るツアーに飛び立った。

Vol.06に続く >>

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