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リットーミュージックより毎月発売。
YUKOダンス体験談コラム 連載ページより。
Vol.05:ベストダンサーを夢見て
〜起用される女性は、たった一人。オーディションに行ってみると…
Vol.04:ベストダンサーを夢見て
〜本人には会えなかったけれど、ついにマイケルの仕事をゲット!!
Vol.03:ベストダンサーを夢見て
〜NYで修行するか、LAで腕試しをするか…、それが問題。
Vol.02:ベストダンサーを夢見て
〜東京、そして憧れのニューヨークへ!
Vol.01:ベストダンサーを夢見て
〜初めて観た華やかな舞台

ユーコ スミダ ジャクソン連載コラム

Vol.04 本人には会えなかったけれど、ついにマイケルの仕事をゲット!!

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ワンブロックごとに、まるで映画のシーンを観ているような錯覚を起こさせるNYとは違って、LA で暮らし始めたころは、ずいぶんとゆっくり時間が過ぎていった。LA 暮らしには車が不可欠だったが、そもそも運転経験すらなかった私は、車を持つ友人の行動に付き合いながら、その広ーい街の土地カンを養っていった。とはいいつつ、夜は毎晩のようにクラブへ足を運んでいたのだけれど。そんな生活をしながら友人ブライアンを通して、当時 LA で活躍するたくさんのダンサーたちと知り合うことができた。

ある日、東京で知り合った振付師から、エイズ募金のためのコンサートで踊る誘いを受けた。私にとっては記念すべき LA での初仕事。とはいえチャリティなのでギャラはナシ。ちょうどその頃、高校を卒業したての従兄弟ユウジが LA の語学学校に通うことになり、それならばと、私とユウジはどこかアパートを探して一緒に暮らそうということになった。ユウジは私と違ってちゃんと下調べをしていたようで、LA に到着するとすぐに中古車を購入。アパートを探すまでの間はウエストハリウッドの安いホテルに滞在し、ようやくめぼしい物件を見つけた。それはお世辞にも治安が良いとはいえないコリアン、スパニッシュ街あったのだが、アールデコ調の外観に引かれた私とユウジは、結局そこを拠点とすることに決めた。ユウジは毎朝学校に通う以外は、私のオーディションや、かけもちで入っていたリハーサルに、彼のトヨタで連れ回ってくれた。感謝!

そんな生活の中で、これはやってみたい!と思ったオーディションのひとつに、ポーラ・アブドゥルのシングル「プロミス・オブ・ア・ニュー・デイ」の PV の仕事があった。彼女は、ジャネット・ジャクソンの振付師をやっていたという肩書きもさることながら、当時ヒットを連発していた最も旬なアーティスト。地元LAのバスケットボール・チーム、レイカーズのチアリーダをやっていたという珍しいキャリアも話題にのぼっていた。オーディションでは女性と男性が 2 人ずつ、計 4 人が選ばれることになっており、私もその中に入ることができた。そして、2〜3 日のリハの後、LA 郊外のホテルに 5 日間滞在しながら撮影するという、PV にしては長く大がかりな撮影となった。内容的には、トロピカルな雰囲気セットが作られ、水の中や草の上で踊ったりというものだった。映像効果も凝っていて、その仕上がりは世間でも評判を呼んだ。その直後、今度はマイケル・ジャクソンの「ブラック・オア・ホワイト」の PV のオーディションに臨んだ。当時では最新の CG 技術を駆使し話題になった、人間の顔がどんどん別人のものに変わっていくという、あの作品だ。ダンサーのオーディションではないと聞いていたが、それ以外はほとんど何も聞かされていなかった。オーディション会場である小さくて古いスタジオには、個性的なキャラクターの人物が、20人くらい椅子に座っていた。ビックになる前のタイラ・パンクスもいた。不思議な威圧感と親近感とを同時に感じながら私は椅子に座った。ダンスのオーディションとは明らかに雰囲気は違い、みんな自己紹介的ことを面白おかしく雄弁に喋っていた。私もそれに加わったわけだが、またまた緊張してしまい、話した内容は断片すら覚えていない。が、数日後にエージェントから知らされた結果は、何と合格だった。撮影当日、出演者 1 人 1 人を撮影するために、約 50 センチ四方の小さなお立ち台が用意されていた。ダンサーという理由で私だけ、その狭い台の上でターンして首を振らされた。ターンしたあと顔がピタリ同じ位置に戻らないとダメとのことで、何回かターンをやらされた。残念ながらマイケル本人は現場に居合わせなかったが、私にとって初めてのマイケル・ジャクソンの仕事となった。

この後すぐイタリアのテレビの仕事で、約半年ローマに滞在することが決まっていた。アメリカのダンサー 3 人のうち 1 人に選ばれるという、英語すら十分話せなかった私にとっては、とても誇らしく思えた仕事だった。手続きを済ませ同居人ユウジを置いて、私は未知の異国イタリアへと飛びだった。番組自体はバラエティーショーで、イタリア人のダンサー 7〜8 人と私たち 3 人の構成によるダンスのシーンが組み込まれていた。バチカンのすぐそばにある稽古場で週 5 日のリハ & 衣装合わせをし、毎週土曜日、テレビ局に観客を入れて撮影は行われた。途中アメリカ人とイタリア人が対立し、ダンサー同士の仲間割れが始まった。習慣の違いが原因だったが、ローマ市内の郵便局で口論となったりもした。けっこう大変だったよなあと思い出したりもするが、いい経験になった。日本から父を、パリから姉をイタリアに招待することもできたので、私はとてもいい気分だった。が、この後、思いがけない事件が起こってしまう。

イタリアから私たち 3 人は、姉の住むパリへ向かい 1 週間ほど滞在し、父は日本へ、私は LA に戻るという計画だった。私が乗った飛行機はパリからセントルイス経由で LA へ向かうはずだった。そのセントルイスで米国への入国審査を受ける際に事件は起こった。長くなるので詳細は省略するが、知識不足のため私は、入国管理のオフィサーに個室に入れられ、嘘をついたら刑務所へ即ぶち込むぞ!と脅され、言葉全てをタイプされ、バックの中を開けられ、お財布はもちろん手帳なども開かれ、あげくの果てにビザまで無効にされ、翌日自費で搭乗地であるパリへと送還される。…というハメになってしまった。そして入国審査で問題のあった人たちが強制的に入れられる小さなホテルへ連れて行かれ、私はそこで絶望的な一夜を過ごした。翌朝、私の顔写真が貼られた黄色い封筒を片手に同じオフィサーが迎えに来た。空港内でジロジロと見られ,ひと時も 1 人にさせてくれることのないまま、私は封筒と一緒に機内のスチュワーデスに引き渡された。理由はともあれこんな扱いされたのは生まれて初めて。その後、スチュワーデスからは「大変だったわね」と意外な言葉。パリ到着後自分はどうなるのかという質問に、彼女は優しく「もう大丈夫。自由の身よ」と教えてくれた。問題が解決したのはこのときわかった。

パリ到着後、一週間後くらいを経て、発行してもらった各種書類を手に、私は LA への直行便に身を預けた。自分のせいで起きたことではあったが、私の胸の中は、アメリカで仕事をやっていくために、まず解決しておくべきピザの問題でいっぱいだ。これから先、アメリカでやっていけるのだろうか?そんな不安でいっぱいの私にとって、LA で待っていた一大オーディションのことなどは、知るよしもなかった。

Vol.05に続く >>

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