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ダンススタイル
リットーミュージックより毎月発売。
YUKOダンス体験談コラム 連載ページより。
Vol.05:ベストダンサーを夢見て
〜起用される女性は、たった一人。オーディションに行ってみると…
Vol.04:ベストダンサーを夢見て
〜本人には会えなかったけれど、ついにマイケルの仕事をゲット!!
Vol.03:ベストダンサーを夢見て
〜NYで修行するか、LAで腕試しをするか…、それが問題。
Vol.02:ベストダンサーを夢見て
〜東京、そして憧れのニューヨークへ!
Vol.01:ベストダンサーを夢見て
〜初めて観た華やかな舞台

ユーコ スミダ ジャクソン連載コラム

Vol.03 ベストダンサーを夢見て〜NYで修行するか、LAで腕試しをするか…、それが問題。

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初めてアメリカの地を踏んで4年後、日本でとあるショーのオーディションが行われるという話を聞きつけた私は、そのオーディションを受けてみることにした。当時ではまだ珍しくダンスと歌だけのショーで、しかも私が田舎にいた頃に夢中で見ていた、ダンサーを目指すひとりの男の物語だった。オーディションは主演男優の相手役を決めるためのもので、それに受かって1カ月くらい舞台公演をやった。今ではすごく有名な唐沢寿明くんや結成前のザ・コンボイのメンバーなどと一緒だった。その舞台にブライアントという、ゲスト的な扱いで出演していたダンサー&振付師がいて、彼にLA行きを強く勧められたことがきっかけで、私の心は次第にNYからLAに傾いていった。今でもそうだが当時からLAにはテレビ、ビデオクリップ、ツアーなどビックアーティストらとのギック(仕事)が、NYに比べるとはるかに多くあった。レッスンを受けるにはNYが環境的に一番よかったのだけれど、プロとしての仕事の数は圧倒的にLAだったのだ。ちょうどそのころテレビで観たソウルUソウルのクリップに魅了されたこともきっかけのひとつ。そのクリップには影になって顔など全然分からないのに、すごいインパクトを持った女性ダンサーがいたのだ。「あんなふうに踊りたい!」と衝動的に思った。余談だがその女性とは、ずいぶん後になって、まったく違う形で仕事することになる。人の縁って本当に不思議。

アメリカではプロのダンサーや振付師は、ダンス専門の、あるいはダンス部門を持った、エージェントと呼ばれる組織に所属しなければならない。ギックはほとんど、エージェントから所属者に知らせが来て、オーディションを受けるシステムになっている。ギックを勝ち取るにはそのオーディションを突破しなければならない。二次審査や多いときは三次審査まであることもある。結果はその後に知らせが来て、そこで選ばれた者だけが仕事につくという流れ。もちろん中にはコネクションや評判などでダイレクトに仕事が入ってくることも、あるにはあるのだが。

私はNYにいる間、ふたつの異なったミュージッククリップのオーディション情報を友人から聞き、挑戦してみることにした。一週間のうちに行われたまったく別のオーディションだったが、ラッキーなことに両方とも合格した。多少の緊張はあったのだが、私の中ではオーディションに臨む際、わけもなく”絶対に受かって見せる!”という、ある意味ふてぶてしい自信が先行していた。今にしてみればそれが結果を残してくれたのだと思う。その自身が結局は自分のいいパフォーマンスにつながったわけだから。それが私流の、”オーディション戦略”だった。

一つ目の仕事は新人ラッパーのクリップだった。大勢のエキストラを使ったものでダンサーは5人。その中には今をときめくジェニファー・ロペスもいた。撮影後の深夜、振付師とジェニファーと3人でキャブをシェアして順番に帰ったことを思い出す。車内でジェニファーは悩み事を打ち明けてくれたりして、とても素直な子なんだなあという印象を持った。

もうひとつはシーラ・Eのクリップだった。ロケはマンハッタンの橋の下。夜の撮影でものすごく寒かったけど妙な緊張感があり、川向こうに見えるブルックリンも、未知の世界という雰囲気でなんだかとても素敵だった。そんなローケーションの中に作られた広いステージで撮影していたときだ。突然、即興のソロを頼まれた。内心は「えーっ!!」っという感じだったのだが、やるしかない!自分の体と、手に持って踊る大きな懐中電灯、それ以外の存在すべてが私の意識から消えていた。どのくらいの時間がたったのだろう。監督からの「カットー」という指示、そして現場にいた人たちの拍手で現実に戻った。嬉しいというよりホッとした。撮影がすべて終了した後、付近を警備していたポリスマンが「すごく良かったよ!」と誉めてくれた。

この2本の仕事をやり終えたあと、このままNYでレッスンを続けるか、それともLAに行ってビックギッグのオーディションに挑戦するか…、そのことで私の頭はいっぱいになった。さんざん悩んだあげく、結局LAでチャレンジしてみたいという気持ちに素直に従うことに決めた。その当時NYでお世話になった友人たちには、お礼をしそこねたぶん、この場を借りてお礼を言いたい。ありがとっ!!ハリウッドに最初に行ったときは、先述の友人ブライアントとその友達でシェアしていたコンドミニアムに割り込んでシェアさせてもらった。LAでの生活は車の免許を持っていなかった当時の私にとっては不便なことが多く、そこに住む人たちもNYとはまるで違って見えた。

日本ともマンハッタンともまったく異なる環境のLAに滞在し始めた私にも、間もなくチャンスがおとずれた。ブライアントが所属するエージェントのオーディションが行われることを彼が教えてくれたのだった。そこはLAに3つある有名なダンス系エージェントのひとつ。一年前のヒザのお皿の骨折のこともあり、正直コンディションはあまり良くないし自信もなかった。でも合格するしかない。だってそのためにLAまで来たのだから。

プレッシャーも相当なもので当日は本当に緊張した。いくつかの異なったスタイルのコンビネーションをやらなければならなかったが、正直あまりいい出来ではなかったと思う。ブライアントもせっかく応援に来てくれたというのに残念だ。発表に先立ってエージェント代表から、プロとして仕事をゲットしていくための、オーディションについての一般常識や知識などが説明された。そしてついに発表。何と、予想に反して無事合格していた。瞬間、自分の前にあった一つ目の大きなトビラが開いた。労働ビザがなかった当時の私には、アメリカで仕事をするうえで法律上の大きな難関があり、そのことはわかっていたのだが、このオーディションに合格できたことで、そんな難題さえ突破したかのように思えた。そんな堅苦しい現実よりも自分の実力を試すチャンスが早く来ることを夢見、待ち望んでいたのだ。

Vol.04に続く >>

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