- ダンススタイル
- リットーミュージックより毎月発売。
YUKOダンス体験談コラム 連載ページより。
- Vol.05:ベストダンサーを夢見て
- 〜起用される女性は、たった一人。オーディションに行ってみると…
- Vol.04:ベストダンサーを夢見て
- 〜本人には会えなかったけれど、ついにマイケルの仕事をゲット!!
- Vol.03:ベストダンサーを夢見て
- 〜NYで修行するか、LAで腕試しをするか…、それが問題。
- Vol.02:ベストダンサーを夢見て
- 〜東京、そして憧れのニューヨークへ!
- Vol.01:ベストダンサーを夢見て
- 〜初めて観た華やかな舞台
ユーコ スミダ ジャクソン連載コラム
Vol.02 ベストダンサーを夢見て〜東京、そして憧れのニューヨークへ!

母が亡くなった後、1番上の姉は結婚、次姉は東京の大学へと、それぞれ実家を離れていった。父と2人で過ごした2年間。最後に私が家を出る時がきた。それまでイメージしていたダンスの世界を広げてくれた、新しいスタイルのファッションショーでの経験…それがキッカケとなって私は、やっぱりダンスをやろう!と密かに決心していたのだ。しかも、より本格的に東京で。父はそのことを、私より早く気づいていたのかもしれない。1人残る父なのに、私の決断に1度も反対することなく、むしろ暖かく応援してくれた。
以前テレビのドキュメント番組で見た、ブロードウェイを目指すニューヨークのダンサー・振付師が教えてくれる、そんなダンススタジオが、東京にあるという。私は真っ先に足を運んだ。招かれていたダンサー・インストラクターは、見るからに厳しそうなアメリカ人女性。しかし生演奏によるパーカッションに合わせて行われていたそのクラスには、それまで映像でしか見たことのなかったマンハッタンの匂いと緊張感が漂っており、九州から出てきたばかりの私を興奮させた。しかも強烈にエネルギッシュ。高校時代、約3年間眠っていたダンスへの情熱が、つま先から頭のテッペンまで湧きたった、そんな毎日がまた始まった。
ところが1週間目くらいだったか、「バキッ!」という音が聞こえた瞬間、私はヒザを脱臼。オフィスに運ばれ、しばらく氷で冷やしてもらった後、感覚が麻痺している脚を引きずりながら、1人でバスや電車を乗り継ぎ、やっとのことでアパートにたどり着いた。このとき私は、本当に都会で1人きりなんだということを実感した。実質的には姉と同居していたものの、お互いほとんど別の生活をしているような感じだったのだ。それから2〜3週間は、クラスを見学するだけの、何とも悔しい毎日。以来、私はヒザに爆弾を抱えることになった。その後、脱臼、そして脱臼から骨折につながるケガなどで、こういう悔しさを何度も味わうことになるのだが…。
初めのうちはバイトとレッスンの毎日。そんな単純な東京暮らしだったが、田舎から出てきた私には大きなカルチャーショックがあった。それはたとえば満員電車。無表情な見知らぬ乗客たちは、みなロボットのように思えたもの。また毎日利用していた駅で人身事故があったのだが、遺体近くの踏切を通り過ぎる際、女性たちのからかうような笑い声が耳に入ってきたのだ。本当に驚いた。同時になぜかとても悲しくて、帰宅した姉に泣きながら話したのを思い出す。
上京後1年、生まれて初めての海外に。行き先はもちろん、夢がふくらむあのマンハッタン!やはり、スタジオに通う人たちから聞くニューヨークの話や、ニューヨークから来るダンスの先生たちから受ける影響などが大きかったのだろう。行ったこともないのに骨を埋める覚悟で旅立った。実際、街に着いた瞬間、以前にもいたことがあるような不思議な懐かしさを感じた。反面、"カルチャーショック海外編"というようなものを感じることも、もちろん多かった。たとえばマンハッタンの角々にあるデリ。それまで多少自信のあった英語で、欲しいものを伝えたつもりだったのに、レンジにいたすごいボリュームのおねえさんに、英語力の無さをバシバシと叩かれた。それは自分にとってはかなりショックな事件で、その後1週間ほど、どこのデリで買うにも、値段がわかる同じものばかりになってしまった。
その頃日本のダンス仲間が何人かマンハッタンに在住していた。アパートなどは賃貸条件の難しさや家賃をセーブするため、何人かでシェアしている人が多く、最初は私もその1人だった。とにかく、"グレートダンサー"を目指し、1日に3レッスンくらい受けるために、いくつかのスタジオを1人で駆け回った。意識的に英語で喋れる友達を作ったりもした。といはいうものの、まだまだ満足に英語が喋れないフラストレーションも大きく、言葉を必要としないダンスには、それまで以上に熱が入ったような気がする。
結局初のマンハッタン滞在は、約4ヶ月で終了。でもその期間に体験できたこと、感じたことはあまりに多く、その後何度も私はマンハッタンに引き戻されることになった。マンハッタンを離れるとき、またいつか来るぞ!と心に誓って帰京した。その後も1年に1度のペースでマンハッタン滞在を重ねるようになる。そうこうしてるうちにニューヨークの大学での公演や、日本で一緒に仕事をしたのがキッカケで知り合ったダンサー・振付師が制作するダンス公演や、そのころ注目のブロードウェイダンサーの個人PR用のビデオなどに参加するチャンスに恵まれるようになる。

