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リットーミュージックより毎月発売。
YUKOダンス体験談コラム 連載ページより。
Vol.05:ベストダンサーを夢見て
〜起用される女性は、たった一人。オーディションに行ってみると…
Vol.04:ベストダンサーを夢見て
〜本人には会えなかったけれど、ついにマイケルの仕事をゲット!!
Vol.03:ベストダンサーを夢見て
〜NYで修行するか、LAで腕試しをするか…、それが問題。
Vol.02:ベストダンサーを夢見て
〜東京、そして憧れのニューヨークへ!
Vol.01:ベストダンサーを夢見て
〜初めて観た華やかな舞台

ユーコ スミダ ジャクソン連載コラム

Vol.01 ベストダンサーを夢見て〜初めて観た華やかな舞台

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ダンスが好きな人なら、それぞれダンスに惹かれることになる“キッカケ”を持っている。私の場合、とある公演だったのだが、そのキッカケ以前の、幼少時代に家で流れていた音楽について触れておきたい。ダンスを大好きになった原因の根底には、きっとそれらがあったと思うから。

私の身近にあった音楽とは、父の趣味によるオールディーズ、母が経営する美容院で流れていたUSやUKのポップ・ミュージック、姉たちの聴く邦楽や洋楽…といったものだった。印象深いアーティストは、アバ、クイーンズ、アース・ウィンド&ファイヤー、カーペンターズ、ビートルズ、ビレッジ・ピープル、スティービー・ワンダー、ポズ・ズキャッグス、テイスト・オブ・ハニー、クール&ザ・ギャングなどなど、数え上げるとキリがない。私はこれらの音楽とともに育ってきた。

ダンスをする直接のキッカケとなったのは、11歳のとき母が連れて行ってくれた、ある歌劇団の公演だった。そんな舞台を観たのは初めてだったせいか、きらびやかな歌と踊りが繰り広げられるその模様に、私はすっかり心を奪われ、とても興奮してしまった。「こういうのをやりたい!」と終演後、母に訴えるように言ったのを覚えている。それがキッカケで母は地元の、あるバレエ学校を探してきてくれた。

初日、母に連れられて、その学校の大きな玄関に緊張しながら入った。そこには何とも言えぬ独特な香りが漂っていた。それはトゥシューズにつける松ヤニと稽古場からの汗の匂い、それと香水が混ざったような感じで、なんだかとてもいい香りだった。地元でも名の知れていた学校だったからだろうが、校長先生や先生方はもちろん、生徒までもが自分とはまったく違う雰囲気を持っていた。

母親と一緒に先生方への挨拶が終わったあと、新品の稽古着を手に更衣室に入った。どっちが前か後ろかわからないレオタードとタイツ、それから左右まったく分からなかったバレエシューズ、それらをなんとか身に付け、たいへんな緊張とともにおそるおそる稽古場に入った。そしてその後は真っ白!初レッスンの感想など、まったく思い出せない。ただそれ以来というもの、レッスン前とレッスン後に、自宅の今で嬉々として練習していたことだけは、昨日のことのように覚えている。

それまでに器械体操、習字、父の勧めによりゴルフなどもやった。結局どれも続かなかった。だけどダンスだけは違った。その出会いの大きさ、それまでに感じたことのない情熱のようなものをはっきりと感じることができた。とにかく、このバレエ学校に通った4年間で私は、クラシック、モダン、ジャズの基礎を学ぶことができた。そこに通って3年目、つまりそこをやめることになる1年くらい前のこと、学校内で派閥間の争いが始まった。その争いは先生だけでなく、生徒間にまで飛び火し、分裂が始まろうとしていた。子供の私にとってその争いは尋常でない人間模様に映った。まるで人生の一大ドラマだった。

ところで、そのころ気になってよく見たのが、ダンス的な要素の強い映画やテレビだった。ブラウン管に映し出されたスティービー・ワンダーのライブ(のちに彼と出会うことになるとは想像もしなかった)には、ものすごいパワーを感じ、彼がドラムを叩いて、しばらくしてステージ状で倒れるシーンでは、テレビの前でドッキッとさせられたものだ。また、NYはマンハッタンでブロードウェイを目指す、3人の若者のリアルな生活を追ったドキュメントを観たとき、自分の中に新たな世界が広がり、ひとつの夢が生まれた。私も広い世界を目指したい!という。

私は、そういった外からの影響を受け続けるうちに、自然と心の中で“何か違うダンススタイル”を追いかけ始めた。そのことも含めいくつかの理由が重なって、私はバレエ学校を長期でお休みする届けを出した。

バレエ学校に行かなくなってしばらくたち、ちょうど中学3年になってすぐのこと、母が倒れ入院することになった。ほどなく帰宅の許しが出てホッとしている、そんなある日の午後、一通の葉書が届いた。「あなたが戻ってくることをみんなで待っています」というバレエ学校の校長先生からの、優しさにあふれた便りだった。読んだ瞬間私は、やっぱり踊りたい!という正直な気持ちが隠せなくなり、居間で横になっていた母の前で、我慢できずにワンワン泣いてしまった。母はそんな私の姿を見て、校長先生に電話をしてくれた。そして、普段はとても厳しかった母は、その時に限ってはとても優しく、しかもはっきりと言った。「これからは、どんなことがあってもダンスをやめちゃダメよ」。そんな言葉を残し数ヵ月後、母はこの世を去った。

結局私は、そんな母の言葉にも応えず、高校入学後またダンスをやめてしまった。理由は“本当にやりたいダンスのスタイルを探すため”というもの。そして高校3年の冬、同級生のほとんどが大学への受験勉強でがんばっていた頃、私に転機が訪れた。ユニークなファッションショーをやることで話題の某ファッションデザイナーが、次回に行う大イベントのため、一般からモデルを募集しているという記事を見つけたのだ。私はそのオーディションへの挑戦を決心し、はるばる九州から上京することにした。

オーディションには、30人の募集定員に対して、全国から3000人ほどの応募があったと聞いた。一次審査で人数を絞られ、オーディション会場に来たのは300人くらいだったと思う。それでも会場の前は長蛇の列だった。具体的な指示があったのは2次審査の時。デザイナー側が求めたのは“元気を体で表現すること”だった。「何でもいいから元気を表現して」と言われ、私は一瞬悩んでしまった。それで私はどうしたかというと、会場の真ん中で寝っ転がって脚を上下させたり、思いきり派手に動き回った…ような気がする。それが良かったのかどうか、結果的に30人中の一人に残ることができた。そうして本番のイベントを通して、歩くだけのファッションショーでなく、体の動きを加えて洋服を見せるという表現のやり方に、また新たな“表現の場”を発見することができた。そしてこれをキッカケに、私は高校卒業後、東京に住むことにしたのだ。

Vol.02に続く >>

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